コラム食堂店主が思ふこと

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平等にね

店主のつぶやき

小さな頃から、無意識に
「平等に」という言葉にひっかかっていた。

子供の頃の、おやつの話。

6歳上の兄と同じおやつが出るんだけど
兄は、そのおやつはそんなに欲しくない。

私はものすごく好きなのに
あいつ(兄のことです)と同じ量。

しかも兄はおやついらないから
恩着せがましく私におやつをくれる。

屈辱だった。

子供の頃なので平等だとか屈辱だとか
認識していなかったのだけど、
今でもその記憶はわりと鮮明で
何でそんなことに引っかかっていたのだろう?
と思い返している。

今でも言葉や行動に示さないまでも
そんな状況になると
なんとなく、なんか言いたくなる感じがある。

何人かでいる場で、
ケーキなどの1ホールがあるとする。

率先して人数分に分ける人。

本当にそこにいる人たちは
それを食べたいとおもっている?

その分だけ食べたいと思っているのだろうか?

もっと食べたいと思っている人もいるかもしれない。

なんとも不思議な世界に感じてくる。
平等がいい、みたいな世界で包まれる。

私は食べたくない時に「いらない」と表明して
みんなで分けてと伝える。

「たくさん食べたい」と言ってみたりもする。

均等に切り分けるのが当たり前。
それは本当にそこにいる人たちに
沿っている行動なんだろうか?


(おそらくほとんどの人は
 そんなこと考えたりしないし、
 どうでもいい人と思う人が多数だろう)

でも気になってしまう。

東北の震災の時のエピソードでこんなのを
聞いたことがある。

避難所におにぎりが届けられた。

しかし人数分なくて、すぐに分けられなくて
揃うまで待っていて期限が切れてしまって廃棄した。

これが事実かどうかもわからないし、
最初の混乱状況とか
どうしていいかわからない時とか
そういうふうになってしまうのかも。

でもありそうでもある。変な平等感があるところ。

これはまた別のイメージだけど、
壁から向こうを見ようとする3人がいる。

3人の背の高さは大きい人、中位の人、低い人

向こうを見たいと思った時、
必要な人が、必要な高さの踏み台を使えること。
そういう状況が健康的な「平等」って気がする。

でも今の世の中はそういう時に
「みんな同じ高さの踏み台」を与えていることが
多いような気がするし、
それに疑問を感じない人も多い。

ちなみに食べたくないものをいただき
お付き合いで食べたりするものって、
太りやすい私にとって見過ごすことができないこと。
食べたくないものを食べて太りたくない。

不自然な平等感を感じるのは私だけなのだろうか?

必要な人に必要な分だけ届けば、無駄とか不健康とか
少なくなるんじゃないかと思っている。

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